文証(文献的証拠)

その宗教の教義が、拠り所とする経文、聖典の上で裏付けを持っているかどうかというのが文証である。
その宗教がいくら自分達の正しさを主張していても、
その教義に文献上の明確な根拠がなければ正しい宗教とは言えないという事になる。
創価学会は自分たちこそ最高に正しい宗教だという文証として、
釈尊が説いた真実最高の教えである法華経を依経にしているからだと主張しているのだが、
しかしこの主張は現代では全く通用しないし、何ら、正しい宗教の根拠にならないという事が明らかになっている。

創価学会は日蓮を宗祖としているので、この主張は日蓮の思想が基になっているのだが、
では日蓮は何をもって法華経が真実最高の教えだと定めたのかと言うと、
日蓮は中国天台宗の実質的開祖であった智顗(天台大師)が立てた「五時八教の教判」を基にしていたのである。
インドの釈尊から始まった仏教はアジアの各地域へと伝播して行き、中国にも伝えられたのだが、
膨大な数の仏教経典の内容が多様化しそれぞれ違っている為、どれが真実の教えなのか混乱状態にあった。
そこで中国では経典の内容が種々異なるのは、釈尊が教えを説いた時期や内容が異なる為と考え、
教えの説かれた時期を分類し、その中でどれが真実で最高の教えであるかを定める「教相判釈」と呼ばれるランク付けが行われていった。
これにはいくつもの教相判釈が存在するのだが、その中で中国天台宗の智顗が行なった教相判釈が「五時八教の教判」なのである。

ここで、なぜ仏教経典の内容が多様化し、それぞれ違ってしまったのかという事について述べておきたい。
それは仏教経典の成り立ちから話を始めなければならない。
釈尊が説いた教えは釈尊在世時には文字として残されず、口承(口伝え)で残されていったのである。
当時のインドでは文字はすでに使われていたが、商用や法規の公布などに限られていて、
宗教家の説く教えは聖なる言葉である為、俗なる文字にはできないという考え方があったようで、全て口伝であった。
仏教経典が文字として成立したのは釈尊滅後200年以後であり、
その時作られたのが「阿含経典」(原始仏典とも呼ばれている)だというのが最新の仏教学の見方である。
その後、釈尊から続く仏教教団は教えの解釈を巡っていくつもの派に分かれていったのだが、
この頃の教団は出家者は民衆救済の為の伝道説法を行わなくなり、
精舎(寺院)に籠もって釈尊の残した教法を研究整理して独自の教義(論(アビダルマ))を作っては
他教団との煩瑣(はんさ)な論争に明け暮れていた。
この時代の仏教を部派仏教またはアビダルマ仏教と呼ぶのだが、
このような民衆救済としての伝道説法を行わなくなったそれまでの仏教教団を批判して、
民衆救済を掲げた大乗仏教運動が起こった。
大乗仏教側はそれまでの教団(部派仏教)を少数の人しか救えない教え(小乗仏教)と貶し、
自分たちは多くの人々を救える教え(大乗仏教)だと名乗った。
この大乗仏教運動の過程で新たに作られていったのが諸大乗経典であり、
法華経もこの時期に作られている。
しかし、大乗仏教も考え方の違いからいくつもの派に分かれていて、
それぞれの派が作った経典もそれぞれ違う内容になってしまった。
仏教経典が多様化してそれぞれ違う教えになってしまったというのはこれが原因なのだ。

ここで話を中国の教相判釈に戻すが、
中国では仏教経典は全て釈尊が直接説いて文字化されたものだと信じられていた為、
内容がそれぞれ違う経典の整合性を保つ為、
教えを説いた時期の違いや教えを説く相手の違いから内容の違う経典ができたと考えたのである。
その教相判釈の1つが天台智顗の立てた五時八教の教判なのだが、
この中で智顗は法華経こそ釈尊の真意が顕わされた最高の教えだと定めたのだ。
日蓮がこの智顗の五時八教を基にしたのは、
日蓮自身が天台宗の寺院で出家して天台宗の教理を学んだという事が影響しているからだ。
だが、すでに明らかなように、智顗が定めた五時八教はあくまでも智顗の想像と独断によって立てられたものであり、歴史的事実ではない。
諸大乗経典の内容は釈尊が説いたものではなくあくまでも後世の創作なのである。
智顗が最高の教えとした法華経も勿論、後世の創作に過ぎないのだ。
正しい宗教であるかどうかを見極める為の「三証」、そしてその中の「文証」は、
どこの誰が作ったか判らないものを基にしていては「正しい教え」とはされない。
いくら仏教経典だと言っても釈尊の教えでなければ、それは正しさの根拠にはなり得ない。
釈尊が実際に説いた教えに最も近い内容の経典は最も早く文字として成立した「阿含経」だというのが現代の仏教学研究の結果である。
法華経を依経にしているといっても、後世の創作経典では正しい宗教の根拠にはならないのだ。
よって、創価学会が「法華経を依経にしている」と言ってもそれは正しさの証明にならないのは言うまでもない。